量子化学とコンピュータ

西川清

 化学とコンピュータについて、私とコンピュータとの関わりを通して簡単に述べ たいと思います。化学は錬金術に始まり、本来実験により分子を取り扱う学問であ り、今日では毎日何百何千という新化合物が合成されています。コンピュータが飛 躍的に発展した現在、当然のことながら化学の分野でも、大いにコンピュータが活 用されています。 例えば、最新の実験機器や測定機器には必ずコンピュータが付属 し、実験操作や測定結果の解析の自動化がなされています。しかしながら、化学で コンピュータが本質的な役割を演じているのは、分子軌道法により分子の電子状態 等を計算する量子化学の分野であります。安定な分子の化学的性質等を求めるだけ でなく、一時的な中間生成物や遷移構造など、実験では観察がほとんど不可能な化 合物の研究も可能になっています。

 さて、1920〜30年にかけて有機電子論が確立され、原子価、共有結合、酸 ・塩基や酸化還元等の経験的に見出された化学的概念が理論的、統一的に理解され ました。一方、Schr\"{o}dinger は水素原子の原子軌道やスペクトルを理論的に解 明し 、量子力学を定式化しました。その直後、Heitler, London と Sugiura が量子力 学を水素分子に適用し、共有結合の本質を解明しました。この方法は化学的直感に 基づくものであり、原子価結合法と呼ばれています。Hund や Mullilen は原子軌 道の概念を分子に拡張し分子軌道法を開発、発展させました。この方法は数学的に シンプルで、計算機の進歩と伴に大きく発展しました。当時はまだ電子計算機もな く、具体的な数値計算が困難であったので、H\"{u}ckel は必要な積分をパラメー タで 置き換える経験的分子軌道法を展開し、π結合を持つ有機分子のスペクトルや化 学的性質を理論的に計算する道を開きました。電子計算機が利用できる以前の19 50年頃には、分子軌道や基準振動の計算はもっぱら手廻し計算機で行なわれてい ました。恩師の話によると、今では想像も付きませんが、4次の永年方程式を解く の1週間、また8次の永年方程式を解くのに検算も含め1年間計算機を廻し続けた とのことでした。1960年代に入ると電子計算機もようやく利用できるようにな り、一部数値計算をおこなう半経験的分子軌道法が展開され、かなり大きな分子の 化学的性質も半定量的に計算できるようになりました。Fukui や Woodward と Hoffmann はこれらの理論を基に実験化学者が使うことの出来る分かり易い定性的 な化学反応理論を展開し、後にこの理論によりノーベル賞を受賞しました。

 私ごとですが、1960年代後半に理論化学研究室の門をたたきました。研究室 には手廻し計算機や電動計算機が未だ残っており、手廻しで加算や引き算をする時 のチンという音が心地よく、時々それをぶん回して遊んだものです。また、最新の ものとして4則計算と平方根がワンタッチで出来る大きな卓上計算機があり、数表 の必要もなく大変重宝がられていました。理学部にはNECのNEAC2230という紙テー プを使用する電子計算機(性能は現在のパソコンを大幅に下回る)があり、私の先 輩は徹夜でこの計算機と格闘し、H$_3$分子のab-initio 計算を行っていました。私自身は大きな分子の2光子吸収の遷移確率を大阪にある 薬品会社のIBM汎用機を使い計算していました。1970年代後半に理学部の 電子計算機室は工学部に移転し、情報処理センターとなり、FUJITSUのFACOM M-160 が導入されました。この頃はカードパンチ機でフォートランのコードをカードに打 ち込み、急ぐ時はそれを抱えて工学部へ通ったものです。1980年代半ばに研究 室にもNECのPC-9801F2やPC-100が導入され、研究用に使うだけでなく、学生と一緒 にしばしばゲ−ムに熱中しました。この頃のマシーンは本当に丈夫で、現在も壊れ ずに残っています。1980年代終わりにワークステーションも導入され、コンピ ュータの環境もかなり整備されました。現在ではパソコンやワークステーションが 高性能になり、自分の研究室でかなりの研究が出来るようになっています。

 分子軌道法はその後の電子計算機の急速な進歩により、分子の電子状態の取り扱 いの主流となっています。基底以外は近似をしない非経験的分子軌道法が発展し、 現在では実験化学者も実験装置の一つとして使えるソフトウェアが数多く市販され ています。小さな分子に対しては、非常に正確な計算が行え、実験値の再現や実験 の精度を上回る予言を行うことが出来ます。更に、新しく有用な機能性分子の分子 設計や新薬開発のための薬剤設計、分子を高効率で合成するための反応設計や触媒 設計等に多いに利用されています。


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http://cmpsci.s.kanazawa-u.ac.jp/~actrep/97/es.nishi.html
Last modified on July 22, 1998.