量子化学の基本用語


西川清

1.Born-Oppenheimer 近似と非断熱分子理論

 分子とは、お互いにクーロン相互作用している電子と原子核からなる集合体である。原子核の質量は一般に電子の質量の数千倍以上重く、運動している電子にとっては、原子核は止まって見える。このような考え方に基づき、Born と Oppenheimer は、分子の状態を電子状態、振動状態、回転状態と並進状態に分離する分子理論を定式化した。分子状態をそのエネルギーの違いにより、このように分離して取り扱う方法を断熱近似(BO近似)と呼び、分子の取り扱いの基礎となっている。ここでは電子のエネルギー(断熱ポテンシャル曲面と呼ばれる)は瞬間瞬間の原子核の配置に依存し、核の状態はこの曲面上の運動として記述される。

 実際上は多電子系の電子状態の計算だけをとってもみても、電子ー電子の動的相関(電子相関と呼ばれる)のため解析的取り扱いは不可能である。しかし、最近ではコンピュータの発展により、小さな系ではKcal/mol程度の計算が可能となり、また分子設計、触媒設計、薬剤設計や反応設計等の解析のため、Gaussian や Hondo 等という量子化学計算パッケージが開発され、理論家だけでなく実験家にもに幅広く利用されている。

 レーザー等の実験技術の進歩により、分子の基底電子状態の電子ー核の動的相関による小さな効果も観測されるようになった。また、基底電子状態が縮退していたり、又は励起断熱ポテンシャルが交差している分子系では、電子ー核の動的相関(非断熱効果と呼ばれる)が重要な役割を演じている。このような非断熱効果を直接取り込むために、原子核と電子を量子力学的に同等に取り扱う非断熱分子理論の確立が待たれている。


2.レーザー光と化学反応の制御

 レーザ光は単色性が大変よく、高出力も可能であり、コヒーレンスであり、またフェムト秒の極短パルスも可能である。レーザー光のこれらの特徴を生かし、光化学反応の励起光源として使用するだけでなく、反応分子を特定の状態に生成したり、さらに化学反応の制御を行うなど興味深い実験が開発された。

 レーザー光の単色性を用いた原子・分子の同位体分離の最も重要な応用は、天然ウランよりU-235の濃縮分離である。同位体原子の質量差等の違いにより、吸収スペクトルに僅かな同位体シフトが現れる。この差を利用しレーザー光で1つの核種のみを選択的に励起し、この励起状態の原子を別のレーザ光で選択的にイオン化し、生成したイオンを分離・回収する。

 高強度の光源で分子を励起した直後や、化学反応が起こっている最中にフェムト秒パルスレーザーを照射し、短寿命の反応中間体や励起状態を直接に検出し、励起状態の緩和過程や化学反応機構を微視的に解析する。更に、レーザーで励起断熱ポテンシャル上に核波束を生成し、別のレーザーでその波束の運動を検出するパンプ・プルーブ法の開発で、励起状態での反応ダイナミクスを直接に解析できる。

 最近、レーザーの特性であるコヒーレンスを積極的に利用し、高効率の新しい光化学反応を設計するいくつかの試みがなされた。(1)レーザーで分子の特定の2準位間にコヒーレンスを作り、特定の励起状態のみを生成するパイパルス法、(2)レーザーで励起断熱ポテンシャル上に核波束を生成し、別のレーザーでその波束の運動を制御し、最初の基底状態とは異なった状態に誘導遷移させるパンプ・コントロール法や(3)3準位間に2つのレーザパルスでコヒーレンスを作るが、照射レーザーにかなりの重なりを持ち、その順序が直感的なパイパルスとは逆である断熱パルス列法などが開発された。これらの方法に基づき、分子のシスートランス異性化反応や分子内プロトン移動反応等を高効率で行うパルス設計(幅、強度、波長やパルス間隔等の決定)が理論的に提案され、今後のレーザー光による化学反応の制御は大いに期待されている。


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http://cmpsci.s.kanazawa-u.ac.jp/~actrep/98/es.nishi.html
Last modified on Oct. 27, 1999.